2010年3月30日 18:11
歴史に名を残したアスリート、ジョン・アキ=ブア
プーマ・アスリートのジョン・アキ=ブアは、ビクトリーランの生みの親として知られています。1972年のミュンヘン大会の400 mハードルで金メダルを獲得した直後に感激のあまり、観客から手渡されたウガンダ国旗を振りながらトラックを回り、これが史上初のウィニングランとなりました。
アキ=ブア(1949年12月3日生まれ、1997年6月20日逝去)は、ウガンダのハードル走者で、ウガンダ初の夏のスポーツの祭典の金メダリストとなりました。短距離のハードル走者として競技生活をスタートさせましたが、英国人コーチのマルコム・アーノルドの指導によって400 mハードルに転向しました。
1970年のコモンウェルスゲームズで4位に終わったのち、1971年にはシーズンベストのタイムを叩き出しましたが、競技経験の乏しさゆえに、1972年夏のミュンヘン大会では優勝候補の本命とみなされてはいませんでした。400 mハードル決勝で本命に挙げられていたのは、前回大会の金メダリストで世界記録保持者の英国人、デビッド・ヘメリーでした。ウガンダ人のプーマ・アスリート、アキ=ブアは、ミュンヘン入りしたときはダークホース扱いで、自身とコーチ以外に優勝を予想する者はいませんでした。アキ=ブアは過去にはあばら屋で暮らし、一日一度の食事さえもままならなかったひどく貧しい生まれの若者でした。それが、この日のために死にものぐるいのトレーニングを重ねた結果、劇的なレースを見せたのです。
誰もが嫌がる内側のレーンでしたが、夏のスポーツの祭典史上に残る快走を見せ、最後の直線でヘメリーを置き去りにして47秒82の世界新記録で優勝。人生を変える値千金の勝利となりましたが、アキ=ブアにとってこれが最初で最後のオリンピック出場であり、選手生活の頂点でした。優勝を決めた直後、アキ=ブアは観客から差し出されたウガンダ国旗を手に取ると、国旗をひらめかせながらトラックを回り、これが勝者による「ウィニングラン」の習慣の始まりとなりました。1976年のモントリオール大会には、ウガンダを含むアフリカ諸国がボイコットしたために出場できず、ライバルと目されたいた米国のエドウィン・モーゼスとの大一番は実現しませんでした。
大会後、アキ=ブアは英雄として祖国に凱旋し、警察官となり、イディ・アミン大統領に取り立てられ、陸上選手としての優れた能力への褒美として家を贈られました。しかし、大会前年に最高権力者の座をつかんだアミン大統領は、すでに大虐殺を始めていました(のちにアキ=ブアは「アフリカで起きた言語道断の残虐行為」だったと語っています)。アミン政権の崩壊後、アキ=ブアは政権の協力者とみなされることを恐れ、家族とともにケニアへ出国。ケニアでは難民キャンプに収容されましたが、やがてスポンサーとしてシューズを提供していたプーマの助力で脱出すると、ドイツに移住してプーマのもとで3、4年働いたのち、ウガンダに帰国してコーチとなりました。
アキ=ブアは今では、ウガンダの小学校の授業で取りあげられる人物になっています。その生い立ち、苦労、陸上選手としての栄光が授業で教えられているのです。そして、ウガンダに史上唯一の陸上の金メダリストをもたらした選手にふさわしく、スタジアムや通りにその名が付けられています。









