2010年4月23日 21:31
PUMA Running Sessionのお知らせ
ウサイン・ボルトの「新しい」インタビューを目にすると、人々は少しばかり懐疑的な気持ちで読み始めます。新しいことが書かれていることはほとんどないからです。これぞボルトというカリスマ性やユーモアに出会うこともめったにありません。けれども、ロンドンイブニングスタンダード紙のマット・マジェンディー氏が世界中のジャーナリストにインタビューとはこうするものだ、という見本を示しました。これは称賛に価します。インタビューの抜粋をご紹介します。
MM:あなたが100 mを9秒ちょうどで走ることは、肉体的に可能でしょうか?
UB:いや、無理だよ。たぶん車でなら可能だけれど、走っては絶対にできない。
MM:クリッシー(クリスティーン・オールグー、英国の陸上競技選手)がジャマイカであなたと一緒にトレーニングしたとき、練習後のトラックでは、あなたはまっすぐ立っていられないほどだと話しています。競技会ではいつもトラック上でくつろいでいるように見えますが、実は人々が思っているより、あなたは努力家なのではないでしょうか?
UB:ものすごく努力しなければ、陸上競技で成功することはできないよ。僕たちとトレーニングするためにジャマイカにやってきた選手はみんな、僕たちの練習量に驚く。一緒にトレーニングすると、なぜ僕たちがレースであんなに速く走れるか理解するんだ。
MM:今、世界のスポーツマンの中で誰かになれるとしたら、誰を選びますか?そして、その理由は?
UB:ウサイン・ボルトでいることにかなり満足しているけれど、サッカーのワールドカップが始まったら、リオネル・メッシやウェイン・ルーニー、クリスティアーノ・ロナウドになるのも悪くないね。この3人はサッカー界で今最高のプレーヤーたちだからね。この3人なら誰でもいいよ。
MM:ファンから贈られた最も奇妙なものは何ですか?
UB:変なプレゼントや手紙はたくさんもらうよ。あるファンはクラシックカーのドアをくれようとしたんだ。でもジャマイカに輸送するのがちょっと難しかったみたいだ。
MM:アスリートになっていなければ、何をしていると思いますか?もしかして、自宅のソファでごろごろしているとか?!
UB:何かのスポーツ選手になっていなければ働いていたと思う。ソファに座っているだけじゃ、お金は稼げないからね!
インタビュー記事全文へのリンクを記す前に、最後にもう1つ。ボルトは次のように語っています。
UB:今トラック上にいるすべての選手を尊敬している。それができないほど愚かではないよ。確かに、僕は今トップの立場にいる。でもロンドンで金メダルを狙っている素晴らしい選手がたくさんいるんだよ。
大丸東京店PUMA SHOPにて¥10,500以上お買い上げの皆様をご招待させて頂いております。
ご興味のある方は店頭にてお申し込み下さい。
*定員になり次第、募集は締め切らせていただきます。
*悪天候の場合は中止とさせていただく場合もございます。その際は前日の17:00までのご連絡を差し上げますので、
必ずご連絡のつくお電話番号をお知らせ下さい。
*小雨の場合は実施いたしますが、カフェでのアフターパーティーは中止となり、ランチボックスのプレゼントとなります。
*ご参加いただいたお客様には、PUMAからのギフトとザ・ペニンシュラからスパご優待券をご用意させて頂いております。
『エスクァイア』誌の最新号では、「ウサイン・ボルトはミュータント(人類の突然変異)」と題し、世界最速の男について洞察に満ちた優れた記事をルーク・ディトリッヒが執筆しています。記事は先週発売の同誌に掲載されましたが、ようやくインターネット上でも読めるようになりました。記事にはナダフ・カンダー撮影の白黒写真も添えられています。
「わずか2年の間にボルトは、人類が到達すると予想されていたよりも30年先を行く、まさに超人的なタイムで100 m走の世界記録を塗り替え続けてきました。もし、この現代最高のアスリートが本気を出したら、どんなことになるのでしょうか」
「スタートの号砲の低い衝撃音は、8台のスピーカーから同時に響き渡ります。各スピーカーは各ランナーの背後に置かれ、スタート前のランナーたちはいずれも、同じようなクラウチングスタートの姿勢を取ります。足をスターティングブロックにつけ、脚をわずかに曲げ、尻を肩よりも高く上げ、スタートラインの白線を越えないところに指を広げます。各ランナーたちは、ライクラ(ポリウレタン弾性繊維)のユニフォームの色こそ、ブルーとホワイトの米国、レッドとホワイトのトリニダードトバゴ、グリーンとイエローのジャマイカとそれぞれ異なりますが、スタート直前のこの瞬間、みな頭を下げ、顔を伏せ、体は微動だにしないため、誰が誰だか見分けるのは容易ではありません」
「約4秒経過時点までには、「加速」段階から「最加速」と呼ばれる段階に移ります。ランナーたちはこの瞬間、まさに古典的な意味で、疾走しています。腰の前方に跳ね上げられる膝、後方に振り上げられる肘、地面を叩きつける足裏の母指球と空気を切り裂く胸との間にできる垂直線。そして、ウサイン・ボルトと他のランナーたちの決定的な違いが明らかになるのは、まさにこの段階です。単純な違いでありながら、実際に目にしても、理解するのは難しい違いでもあります」
●イベント実施予定店舗(詳細は、各店舗の募集要項を御確認ください。)
プーマ・アスリートでウガンダのモーゼス・キプシロは、昨年2009年の世界クロスカントリー選手権で2位に、同年の世界陸上と2008年のオリンピックの5000 mで4位に入りました。ウェブサイト「LetsRun.com」に、キプシロについてPJ・ブラウンによるすばらしい記事が掲載されています。以下は、その記事の抜粋とリンク先です。
現在23歳のモーゼス・キプシロが広く名を知られるまでの生い立ちは、ひと口では言い表せない入り組んだものですが、ジョン・アキ=ブアと非常に似ています(アキ=ブアについてはひとつ前に掲載した記事をご覧ください)。ウガンダを案内するツアーガイドは、緑豊かな景色、息を呑むほど美しい山や湖、数多くの野生動物や自然公園について語ります。ウガンダはナイル川の源流であるだけでなく、気候も世界一だと評判です。しかし、貧困、飢餓、犯罪、暴力について、ツアーガイドの口から語られることはありません。ウガンダでは、ごくわずかな人々しか満足な食事にありつけません。そのさらにひと握りの人しか、基本的な医療、学校教育、その他の社会福祉を受けることができません。そんな環境のなかでキプシロは育ちました。
「ずっとアスリートになりたいと思っていた」とキプシロは静かに語ります。「アキ=ブアが金メダルを獲得したとき、僕はまだ生まれてさえいなかったけれど、両親や家族がよく話をしていたし、学校でもアキ=ブアの偉業について教わった。アキ=ブアの成し遂げたことに肩を並べられるとは思わない。アキ=ブアはこの国の大多数の人にとって、心を鼓舞してくれる存在だからね」
ウガンダでのトレーニングは、地形、環境、時期を考慮して選ぶことが必要です。アフリカ人ならではのスタイルを守り続けるキプシロは、走った距離を数えません。特定の距離を走るのではなく、いつも時間を決めて走ります。毎日1時間か90分走りますが、1日に2回走ることもありますし、1時間のランニングを複数回こなすことも少なくなく、柔軟に対応しています。トレーニングのメニューには、適度なペースで40~50分走るテンポ走や、ヒルトレーニングも盛り込まれています。たいてい週に計80から100マイル走ることになりますが、それよりもかなり少なくなることもあります。基本的に日曜は休養日です。
トレーニングは高地で、コーチや代理人のリッキー・シムズ(ウサイン・ボルトの代理人として有名)を伴わずに、ひとりで行っています。しかし、コーチは日々の練習内容をしっかりチェックし、トレーニング過多にならないことに満足しています(キプシロのトレーニングの詳細は、ウェブサイト「LetsRun」の記事中のコラムに掲載されています)。
シムズは次のように語っています。「モーゼスはたいへんな才能の持ち主だ。なかでもすばらしいのは、ラスト1周の走力だ。ラストスパートがとても速い。1周59~60秒ならゆうゆう走れる。1周52~53秒のラップをこなせるかはわからない。ラスト1周をどれくらいで走れるかは、レースのそれまでのペースに左右される。スローペースでラストを迎えたら、最速で51~52秒に迫るタイムを出すランナーもいるだろう。モーゼスはかなりのスパート力があり、自信も持っているが、私たちはさまざまなペースを想定した練習に取り組んでいる」
「モーゼスはランナーとしても優秀で、先頭から少し離れた位置で後ろからレース展開をうかがうのを好む。私たちはこれまでモーゼスがランナーとして足固めできるように尽力してきたが、2009年には、それが形となって見えてきた」。キプシロはモナコで、ウガンダ新記録の7分30秒95のタイムで優勝。英国のゲーツヘッドでも、バーナード・ラガトを下して優勝しています。
2010年の出場予定には、春の世界クロスカントリー選手権、夏のアフリカ陸上競技選手権と秋のコモンウェルスゲームズが盛り込まれています。負傷から復帰したばかりのため、万全の状態に戻るまで数か月かかるかもしれません。そして、3000 mでは7分30秒、5000 mでは12分50秒を切るタイムを目指しています。「僕が一番好きなのは5000 mで、できればタイムを12分45秒まで縮めたい」と語るキプシロですが、5000 mでは2007年の世界陸上での銅メダルに加え、2008年のオリンピックと2009年の世界陸上で4位に入っています。
アキ=ブアとは異なり、キプシロには総合的にサポートしてくれるチームがいます。「ウガンダ陸上競技連盟とモーゼスに対するプーマの貢献は軽視できない。プーマはモーゼスを手厚くサポートしてくれている」とシムズも認めています。
才能豊かなキプシロの今後について、シムズは慎重ながらも自信に満ちた言葉で語っています。「将来について大言壮語するのは馬鹿げている。私の口から言えるのは、モーゼスが中距離界を制覇できるかどうかはまだわからないが、間違いなく有力選手のひとりになるということだ。アフリカの他のアスリート同様、モーゼスはすばらしいスポーツ大使だし、その成功はウガンダにとって大きなプラス要素だ。モーゼスの評価は上がりつづけており、できることならば末長く競技生活を送ってもらいたい」
最後は、キプシロの言葉で締めくくりましょう。「ウガンダの陸上競技におけるアキ=ブアの地位は、孤高のものだ。アキ=ブアは唯一無二の人物であり、国の状況が違っていたら、陸上でもっと多くのことを成し遂げていたはずだ。アキ=ブアのような巨大な存在に代わることはできない。アキ=ブアは伝説であり、そうなるのも当然の人だ。アキ=ブアと並び称されるのは名誉なことさ。でも、アキ=ブアと張り合うつもりはない。僕を鼓舞してくれる存在だからね」
プーマ・アスリートのジョン・アキ=ブアは、ビクトリーランの生みの親として知られています。1972年のミュンヘン大会の400 mハードルで金メダルを獲得した直後に感激のあまり、観客から手渡されたウガンダ国旗を振りながらトラックを回り、これが史上初のウィニングランとなりました。
アキ=ブア(1949年12月3日生まれ、1997年6月20日逝去)は、ウガンダのハードル走者で、ウガンダ初の夏のスポーツの祭典の金メダリストとなりました。短距離のハードル走者として競技生活をスタートさせましたが、英国人コーチのマルコム・アーノルドの指導によって400 mハードルに転向しました。
1970年のコモンウェルスゲームズで4位に終わったのち、1971年にはシーズンベストのタイムを叩き出しましたが、競技経験の乏しさゆえに、1972年夏のミュンヘン大会では優勝候補の本命とみなされてはいませんでした。400 mハードル決勝で本命に挙げられていたのは、前回大会の金メダリストで世界記録保持者の英国人、デビッド・ヘメリーでした。ウガンダ人のプーマ・アスリート、アキ=ブアは、ミュンヘン入りしたときはダークホース扱いで、自身とコーチ以外に優勝を予想する者はいませんでした。アキ=ブアは過去にはあばら屋で暮らし、一日一度の食事さえもままならなかったひどく貧しい生まれの若者でした。それが、この日のために死にものぐるいのトレーニングを重ねた結果、劇的なレースを見せたのです。
誰もが嫌がる内側のレーンでしたが、夏のスポーツの祭典史上に残る快走を見せ、最後の直線でヘメリーを置き去りにして47秒82の世界新記録で優勝。人生を変える値千金の勝利となりましたが、アキ=ブアにとってこれが最初で最後のオリンピック出場であり、選手生活の頂点でした。優勝を決めた直後、アキ=ブアは観客から差し出されたウガンダ国旗を手に取ると、国旗をひらめかせながらトラックを回り、これが勝者による「ウィニングラン」の習慣の始まりとなりました。1976年のモントリオール大会には、ウガンダを含むアフリカ諸国がボイコットしたために出場できず、ライバルと目されたいた米国のエドウィン・モーゼスとの大一番は実現しませんでした。
大会後、アキ=ブアは英雄として祖国に凱旋し、警察官となり、イディ・アミン大統領に取り立てられ、陸上選手としての優れた能力への褒美として家を贈られました。しかし、大会前年に最高権力者の座をつかんだアミン大統領は、すでに大虐殺を始めていました(のちにアキ=ブアは「アフリカで起きた言語道断の残虐行為」だったと語っています)。アミン政権の崩壊後、アキ=ブアは政権の協力者とみなされることを恐れ、家族とともにケニアへ出国。ケニアでは難民キャンプに収容されましたが、やがてスポンサーとしてシューズを提供していたプーマの助力で脱出すると、ドイツに移住してプーマのもとで3、4年働いたのち、ウガンダに帰国してコーチとなりました。
アキ=ブアは今では、ウガンダの小学校の授業で取りあげられる人物になっています。その生い立ち、苦労、陸上選手としての栄光が授業で教えられているのです。そして、ウガンダに史上唯一の陸上の金メダリストをもたらした選手にふさわしく、スタジアムや通りにその名が付けられています。
