2010年4月 1日 17:28
PUMA® RUNNING SESSIONのお知らせ
●イベント実施予定店舗(詳細は、各店舗の募集要項を御確認ください。)ザペニンシュラ ブティック&カフェ仲通りにてアフターパーティも実施予定
●イベント実施予定店舗(詳細は、各店舗の募集要項を御確認ください。)
プーマ・アスリートでウガンダのモーゼス・キプシロは、昨年2009年の世界クロスカントリー選手権で2位に、同年の世界陸上と2008年のオリンピックの5000 mで4位に入りました。ウェブサイト「LetsRun.com」に、キプシロについてPJ・ブラウンによるすばらしい記事が掲載されています。以下は、その記事の抜粋とリンク先です。
現在23歳のモーゼス・キプシロが広く名を知られるまでの生い立ちは、ひと口では言い表せない入り組んだものですが、ジョン・アキ=ブアと非常に似ています(アキ=ブアについてはひとつ前に掲載した記事をご覧ください)。ウガンダを案内するツアーガイドは、緑豊かな景色、息を呑むほど美しい山や湖、数多くの野生動物や自然公園について語ります。ウガンダはナイル川の源流であるだけでなく、気候も世界一だと評判です。しかし、貧困、飢餓、犯罪、暴力について、ツアーガイドの口から語られることはありません。ウガンダでは、ごくわずかな人々しか満足な食事にありつけません。そのさらにひと握りの人しか、基本的な医療、学校教育、その他の社会福祉を受けることができません。そんな環境のなかでキプシロは育ちました。
「ずっとアスリートになりたいと思っていた」とキプシロは静かに語ります。「アキ=ブアが金メダルを獲得したとき、僕はまだ生まれてさえいなかったけれど、両親や家族がよく話をしていたし、学校でもアキ=ブアの偉業について教わった。アキ=ブアの成し遂げたことに肩を並べられるとは思わない。アキ=ブアはこの国の大多数の人にとって、心を鼓舞してくれる存在だからね」
ウガンダでのトレーニングは、地形、環境、時期を考慮して選ぶことが必要です。アフリカ人ならではのスタイルを守り続けるキプシロは、走った距離を数えません。特定の距離を走るのではなく、いつも時間を決めて走ります。毎日1時間か90分走りますが、1日に2回走ることもありますし、1時間のランニングを複数回こなすことも少なくなく、柔軟に対応しています。トレーニングのメニューには、適度なペースで40~50分走るテンポ走や、ヒルトレーニングも盛り込まれています。たいてい週に計80から100マイル走ることになりますが、それよりもかなり少なくなることもあります。基本的に日曜は休養日です。
トレーニングは高地で、コーチや代理人のリッキー・シムズ(ウサイン・ボルトの代理人として有名)を伴わずに、ひとりで行っています。しかし、コーチは日々の練習内容をしっかりチェックし、トレーニング過多にならないことに満足しています(キプシロのトレーニングの詳細は、ウェブサイト「LetsRun」の記事中のコラムに掲載されています)。
シムズは次のように語っています。「モーゼスはたいへんな才能の持ち主だ。なかでもすばらしいのは、ラスト1周の走力だ。ラストスパートがとても速い。1周59~60秒ならゆうゆう走れる。1周52~53秒のラップをこなせるかはわからない。ラスト1周をどれくらいで走れるかは、レースのそれまでのペースに左右される。スローペースでラストを迎えたら、最速で51~52秒に迫るタイムを出すランナーもいるだろう。モーゼスはかなりのスパート力があり、自信も持っているが、私たちはさまざまなペースを想定した練習に取り組んでいる」
「モーゼスはランナーとしても優秀で、先頭から少し離れた位置で後ろからレース展開をうかがうのを好む。私たちはこれまでモーゼスがランナーとして足固めできるように尽力してきたが、2009年には、それが形となって見えてきた」。キプシロはモナコで、ウガンダ新記録の7分30秒95のタイムで優勝。英国のゲーツヘッドでも、バーナード・ラガトを下して優勝しています。
2010年の出場予定には、春の世界クロスカントリー選手権、夏のアフリカ陸上競技選手権と秋のコモンウェルスゲームズが盛り込まれています。負傷から復帰したばかりのため、万全の状態に戻るまで数か月かかるかもしれません。そして、3000 mでは7分30秒、5000 mでは12分50秒を切るタイムを目指しています。「僕が一番好きなのは5000 mで、できればタイムを12分45秒まで縮めたい」と語るキプシロですが、5000 mでは2007年の世界陸上での銅メダルに加え、2008年のオリンピックと2009年の世界陸上で4位に入っています。
アキ=ブアとは異なり、キプシロには総合的にサポートしてくれるチームがいます。「ウガンダ陸上競技連盟とモーゼスに対するプーマの貢献は軽視できない。プーマはモーゼスを手厚くサポートしてくれている」とシムズも認めています。
才能豊かなキプシロの今後について、シムズは慎重ながらも自信に満ちた言葉で語っています。「将来について大言壮語するのは馬鹿げている。私の口から言えるのは、モーゼスが中距離界を制覇できるかどうかはまだわからないが、間違いなく有力選手のひとりになるということだ。アフリカの他のアスリート同様、モーゼスはすばらしいスポーツ大使だし、その成功はウガンダにとって大きなプラス要素だ。モーゼスの評価は上がりつづけており、できることならば末長く競技生活を送ってもらいたい」
最後は、キプシロの言葉で締めくくりましょう。「ウガンダの陸上競技におけるアキ=ブアの地位は、孤高のものだ。アキ=ブアは唯一無二の人物であり、国の状況が違っていたら、陸上でもっと多くのことを成し遂げていたはずだ。アキ=ブアのような巨大な存在に代わることはできない。アキ=ブアは伝説であり、そうなるのも当然の人だ。アキ=ブアと並び称されるのは名誉なことさ。でも、アキ=ブアと張り合うつもりはない。僕を鼓舞してくれる存在だからね」
プーマ・アスリートのジョン・アキ=ブアは、ビクトリーランの生みの親として知られています。1972年のミュンヘン大会の400 mハードルで金メダルを獲得した直後に感激のあまり、観客から手渡されたウガンダ国旗を振りながらトラックを回り、これが史上初のウィニングランとなりました。
アキ=ブア(1949年12月3日生まれ、1997年6月20日逝去)は、ウガンダのハードル走者で、ウガンダ初の夏のスポーツの祭典の金メダリストとなりました。短距離のハードル走者として競技生活をスタートさせましたが、英国人コーチのマルコム・アーノルドの指導によって400 mハードルに転向しました。
1970年のコモンウェルスゲームズで4位に終わったのち、1971年にはシーズンベストのタイムを叩き出しましたが、競技経験の乏しさゆえに、1972年夏のミュンヘン大会では優勝候補の本命とみなされてはいませんでした。400 mハードル決勝で本命に挙げられていたのは、前回大会の金メダリストで世界記録保持者の英国人、デビッド・ヘメリーでした。ウガンダ人のプーマ・アスリート、アキ=ブアは、ミュンヘン入りしたときはダークホース扱いで、自身とコーチ以外に優勝を予想する者はいませんでした。アキ=ブアは過去にはあばら屋で暮らし、一日一度の食事さえもままならなかったひどく貧しい生まれの若者でした。それが、この日のために死にものぐるいのトレーニングを重ねた結果、劇的なレースを見せたのです。
誰もが嫌がる内側のレーンでしたが、夏のスポーツの祭典史上に残る快走を見せ、最後の直線でヘメリーを置き去りにして47秒82の世界新記録で優勝。人生を変える値千金の勝利となりましたが、アキ=ブアにとってこれが最初で最後のオリンピック出場であり、選手生活の頂点でした。優勝を決めた直後、アキ=ブアは観客から差し出されたウガンダ国旗を手に取ると、国旗をひらめかせながらトラックを回り、これが勝者による「ウィニングラン」の習慣の始まりとなりました。1976年のモントリオール大会には、ウガンダを含むアフリカ諸国がボイコットしたために出場できず、ライバルと目されたいた米国のエドウィン・モーゼスとの大一番は実現しませんでした。
大会後、アキ=ブアは英雄として祖国に凱旋し、警察官となり、イディ・アミン大統領に取り立てられ、陸上選手としての優れた能力への褒美として家を贈られました。しかし、大会前年に最高権力者の座をつかんだアミン大統領は、すでに大虐殺を始めていました(のちにアキ=ブアは「アフリカで起きた言語道断の残虐行為」だったと語っています)。アミン政権の崩壊後、アキ=ブアは政権の協力者とみなされることを恐れ、家族とともにケニアへ出国。ケニアでは難民キャンプに収容されましたが、やがてスポンサーとしてシューズを提供していたプーマの助力で脱出すると、ドイツに移住してプーマのもとで3、4年働いたのち、ウガンダに帰国してコーチとなりました。
アキ=ブアは今では、ウガンダの小学校の授業で取りあげられる人物になっています。その生い立ち、苦労、陸上選手としての栄光が授業で教えられているのです。そして、ウガンダに史上唯一の陸上の金メダリストをもたらした選手にふさわしく、スタジアムや通りにその名が付けられています。

プーマは「Boys & Girls Athletics Championships」が記念すべき100回目を迎えたことを心から祝福します。
次のウサイン・ボルトは誰なのか。シェリー=アン・フレーザーを超えるのは誰なのか。そんな議論や予想がジャマイカではよく交わされていますが、とりわけ「Boys & Girls Athletics Championships」(少年少女陸上選手権)を開催中のナショナル・スタジアムではその手の話に花が咲きます。
今年100回目を迎えた同大会は、高校生の大会としては世界最大級の大会です。毎年、19歳未満の才能豊かな新星たちが世界にその実力を披露し、ジャマイカが生んだオリンピックのゴールドメダリストたちの多くも、ここから世界へと巣立っています。
ボルトも16歳のとき、2003年、同大会の200 m と400 m の両種目で、それぞれ20秒23、45秒30の大会新記録を叩き出し、センセーションを巻き起こしました。「この大会は僕らジャマイカのアスリートにとっては毎年最大の楽しみになっている。今でも毎年見に行っている。世界陸上やオリンピックみたいなものだ」とボルトは語っています。「大会では激しい戦いが繰り広げられる。なかでもリレーは激戦で、スタートと同時にスタジアムの空気が一変するんだ」
プーマは過去10年にわたって、この意義ある大会をサポートし、今では大会のメインパートナーのひとつとなっています。広告バナーやゼッケン上にロゴマークが登場する他にも、ジャマイカのトップレベルの高校も支援しています。こうしてプーマは、ジャマイカの陸上競技において高校生からトップアスリートまで全面的なパートナーとなっています。オリンピックや世界陸上の代表チームを支えるだけでなく、ジャマイカの陸上競技界の発展を後押ししているのです。
1910年の初開催から100年目を迎えた今大会で、また新たなスターが生まれた際には、プーマは支援を惜しむつもりはありません。

